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『水俣病公式確認から70年 ―サステナビリティ・ガバナンスを問い直す』竹原 正篤

本年2026年5月1日、水俣病が公式に確認された1956年5月1日から70年を迎えた。水俣病は、全面解決への道筋がなお見えず、現在も救済を求める被害者による訴訟が続いている。熊本県出身の筆者は、長年にわたり水俣病に苦しむ人々を身近で見聞きしてきた。あまりにも多くの年月が流れてしまったが、救済を求める人々に必要な支援が一日も早く行き届くことを切に願う。

本稿では、近年目にする機会が増えてきた「サステナビリティ・ガバナンス」という言葉を手がかりに、水俣病を現在および将来への教訓として捉え直してみたい。

サステナビリティ・ガバナンスにはまだ統一された定義は存在しないが、一般には、企業が環境・社会・ガバナンス(ESG)課題を経営の執行および取締役会の監督というコーポレートガバナンスの枠組みの中で取り組み、戦略に統合し、株主のみならず多様なステークホルダーに配慮しながら長期的に価値創造を実現するための統治の仕組みと理解される。近年この言葉が用いられるようになった背景には、サステナビリティ課題を経営の中核であるコーポレートガバナンスのレベルで取り組むべきであるという認識が広がってきたことがある。この動きは重要であり、歓迎すべきものである。

水俣病の発生と被害が拡大した経緯を、サステナビリティ・ガバナンスという観点から振り返ると多くの示唆が得られる。原因企業であるチッソは、経営陣が生産至上主義のもとで自然環境やステークホルダーへの配慮を怠り、サステナビリティ・ガバナンスが全く機能しない状態にあった。初期の段階で工場排水との関連が指摘されていたにもかかわらず、有効な対策を講じることなく操業を継続し、結果として被害の拡大を招いた。

このことは、企業が取り組むべきサステナビリティ課題を、自社の企業価値に影響を及ぼす課題を中心に選定するという、いわゆるシングルマテリアリティ中心のアプローチの限界を示唆している。

チッソは、自社事業が環境や社会に与えていた重大な負の影響、すなわちダブルマテリアリティの視点からみた重要課題に十分向き合わなかった。その結果、多額の賠償責任を負い、企業の持続可能性そのものが大きく損なわれることとなった。この事例は、企業が、自社が発生させる環境・社会への負の影響を経営の根幹に関わる課題として認識し、コーポレートガバナンスレベルで取り組まなければならないことを示している。

ただし、現在日本企業で議論されているサステナビリティ・ガバナンスは、なお発展途上にあると言わざるを得ない。国連環境計画金融イニシアティブ(UNEP FI)は、2014年に「Integrated Governance(統合ガバナンス)」という概念を提示し、サステナビリティを独立したテーマとして扱うのではなく、企業の戦略そのものとして統合すべきことを示した。統合ガバナンスにおいては、取締役会の全メンバーがサステナビリティを自らの責任として捉え、指名・報酬・監査など取締役会のすべての委員会において、それぞれの役割の中で関連するESG課題に主体的に取り組むことが求められる。

UNEP FIは、この統合ガバナンスに至るまでの過程を三つのフェーズとして整理している。欧米の一部先進企業においては統合ガバナンスの実現に向けた取り組みが進展しているとされる一方、日本企業で現在進められているサステナビリティ・ガバナンスは、こうした整理に照らせば第2フェーズに位置づけられると考えられる。水俣病のような悲劇を二度と繰り返さないためには、企業はサステナビリティを経営の中核に据え、この統合ガバナンスの水準を目指していく必要がある。

さらに、水俣病の被害拡大には、企業以外の主体も結果として関与していた点も見落としてはならない。本来、社会において発生した問題の防止や解決に重要な役割を担う行政(国・地方自治体)は、環境汚染と健康被害の兆候を認識しながらも、規制や操業停止といった措置を十分に講じなかった。その結果、対応の遅れが被害を深刻化させた。加えて、地域社会においても企業活動を優先する圧力が働き、被害者を孤立させる状況が生じたことも、問題の早期解決を困難にした。水俣病の被害拡大の背景には、企業におけるサステナビリティ・ガバナンスの欠如に加え、社会全体におけるガバナンスの機能不全があったといえる。

環境経営学会は、これまでもサステナビリティと経営の統合を理論と実務の双方から探究してきた。本学会の役割は、こうした議論をさらに深化させ、企業の変革を後押ししていく点にある。同時に、積極的な情報発信や政策提言を通じて、社会全体のサステナビリティ・ガバナンスの向上にも貢献していかなければならない。水俣病公式確認から70年という節目にあたり、企業と社会のサステナビリティ・ガバナンスの現在地とその先を改めて問い直したい(2026年5月9日)。

 

<注記>

UNEP FI(2014)が統合ガバナンスを提案した当時は、現在のようにマテリアリティ、特にダブルマテリアリティの概念は必ずしも明確に整理されていなかった。しかし、サステナビリティを企業の戦略そのものとして統合するという統合ガバナンスの考え方に照らせば、企業の財務的影響のみならず、環境・社会への影響も考慮するダブルマテリアリティの視点が含意されていると筆者は考える。

 

【参考文献】

後藤敏彦 (2026) 「そもそもサステナビリティ経営とは何か?」[基調講演]サステイナブルマネジメント, 25, 7–24.

丸山定巳 (2000) 「水俣病に対する責任―発生・拡大・救済責任の問題をめぐって―」 環境社会学研究, 6, 23–38.

政野淳子 (2013). 『四大公害病―水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害』 中央公論新社.

United Nations Environment Programme Finance Initiative (2014) “Integrated governance: A new model of governance for sustainability” UNEP FI